直流電界研磨によるタングステン探針作製とその再現性問題, version 1.0

高見 知秀, February 19, 2009


1. 少し長い序論:なぜそんなに鋭利で頑丈な探針が必要なの?


針は様々なところで用いられている便利な道具です。一般に針というと、裁縫の縫い針や紙をとめるピンとかを思い浮かべます。しかしここでいう針は、走査トンネル顕微鏡という顕微鏡で原子を観るための特殊な用途の針を想定していて、通常の針よりも鋭利かつ頑丈な針の作製を追求しています。


走査トンネル顕微鏡(Scanning Tunneling Microscope: 以下STMと省略します)は、非常に鋭利な導電性の針を試料表面に近づけて、探針と試料との距離を数ナノメートル以下にした状態で探針と試料との間に数ボルト以下の電圧をかけたときに流れる非接触電流(量子力学でいうところのトンネル効果に基づく電流で、トンネル電流と言います)を検知して、そのトンネル電流を検知しながら探針を試料表面に対して走査することによって得られる表面形状を観察する顕微鏡であり、原子スケールでの試料観察が可能だということで知られています。


このSTMで用いられる導電性探針において、現在もっともよく用いられているのが白金とイリジウムの合金の探針で、しかも驚くことにニッパーで切断しただけの針でも原子観察ができることがあります。その理由は、単純にニッパーで切断した針の先端は八ヶ岳のようになっていたとしても、その先端のどこかは試料に一番近い先端が存在するので、平坦な試料の場合にはその先端で観察するので問題ないことが多々あります。そして、これはSTMの肝となるところでもありますが、トンネル電流の値は探針と試料との距離に対して非常に鋭敏で、原子1個分の距離だけ変えただけでトンネル電流が数倍以上にも変化します。これが、STMで原子が観察できる理由のひとつでもあります。余談ですが、私の師匠の中には、このSTMが世に出て間もない頃、「あんな富士山を逆さにしたようなものでピンポン玉を見ることができるわけがない」と豪語する方が複数いらっしゃったのですが、それに対する反論のひとつがこのトンネル電流の性質だったのです。更に、特にグラファイト試料の場合には、探針と試料との間にかける電圧を0.2ボルト以下にすると、比較的簡便に原子分解能の像が「みかけ上」みられます。このことからSTMを知っている人の中には、「そんなに探針作製に凝っても意味ないんじゃないの?」とおっしゃる方もいるわけです。


しかし、実は上記の原子分解能観察には2つのトリックがあります。


そのトリックのひとつが、「0.2ボルト以下」というところです。というのは、実は走査中に電圧を0ボルトにしてもこの原子分解能が得られます。しかも、そのときに探針と試料との距離が変化しない場合が多いのです。ということは、実は検知している電流は非接触電流つまりトンネル電流ではなく、接触して走査しているときの摩擦で発生する電流つまり摩擦誘起電流を検知して像を得ている場合がほとんどなのです。つまり結論から言うと、得られている像は走査トンネル顕微鏡像ではなく、「摩擦誘起電流像」なのです。本当に探針が鋭利かつ頑丈な場合で装置のノイズ振動対策が完璧な場合には、上記の電圧条件でも非接触を保つことができるのでSTM像が得られるのですが、多くの場合には接触観察しています。STM観察を体験した方々の中で、「グラファイトは原子分解能で観察できるのに、その上に吸着した分子がどうしても観察できないのはなぜ?」という経験をされた方は、多くの場合がこの接触観察に該当します。接触しているわけですから、見たい分子が針で引っ剥がされるのは当然です。ただ、これは蛇足かもしれませんが、グラファイトのSTM像のすべてが真のSTM像でない、というわけではありません。例えば電圧が0.5ボルト以上で見えている場合で、電圧を変えたときに一定電流に保つには距離が変化するのであれば、これは非接触であることの証明ですからちゃんとトンネル電流を検知しています。


そしてもうひとつのトリックが「平坦な試料」というところです。実は、STMでSTMの針を観察しようとした先生が過去にいらっしゃったのですが、結果は失敗に終わっています。その理由は、現状の技術では探針先端を鋭利かつ頑丈にすることに限界があり、トンネル電流が流れる先端箇所が走査中にコロコロと変わるので、これでは観察にならないわけです。STMでのきれいな像の多くは平坦なところでの観察がほとんどで、段差の多い試料になると探針形状が係わってきて馬脚を現すことが多くあります。そのひとつがゴースト、つまり像が二重または多重に見えることです。私がこれまでにみた論文の中に、分子やナノ構造を局所的に並べるのに成功した、という報告例があるのですが、このうちのいくつかはゴースト像でした。それは、像の他の場所、特に下地試料の階段状になっているところをよく診ると、そこもゴーストになっていて、その間隔が子やナノ構造の周期間隔と一致しているのです。つまり、ゴーストに騙されていたわけです。


ということで、STMで真の原子分解能観察をするためには、先端が鋭利であることが必要となるのですが、再現性のよい観察を行うためにはもうひとつ、試料観察中に探針の状態が変化しないようにすることも必要です。つまり探針は鋭利なだけでなく、頑丈であることも要求されるわけです。


さらに、単なる原子分解能像観察を越えて、その先の測定をすることになると、探針に要求されるスペックはより熾烈になります。例えば、探針と試料との間にかける電圧を変化させたときに変化するトンネル電流を検知することで、原子スケールの局所領域での電子状態を分析する走査トンネル分光(Scanning Tunneling Spectroscopy: 以下STSと省略)という測定法は、一個の原子や分子の状態を診断できる夢のような測定法なのですが、これを実現するには、探針にかける電圧を変化させても探針の状態が変化しない、より強固な探針が必要となります。例えば銀の表面のSTSの論文をみるとそのほとんどが、電圧が1ボルト以下での測定しか出していません。それは、電圧が1ボルト以上になっても状態が変化しない探針を作製することが難しいからです。ところが、分子など多くの試料はその1ボルト以上の測定で有益な情報が得られることが多いので、少なくとも2ボルトぐらいまでは状態が変化しない探針が必要となります。これに対してSTM像を観察する場合には、探針の状態が安定する電圧に固定すれば、非常に分解能の高い鮮明な像が得られるので、そこまでの努力で十分な観察が出来ます。ところがSTSを行うには、電圧を変えても像が不安定にならないような探針でなければ測定できないわけです。STMの観察を行っている人たちの多くがSTSをあまり真面目にやらない(実は私もそうでした)理由のひとつが、この探針の質のハードルの高さにあると私は考えています。


そこでここでは、STMだけでなくSTSにも耐えられる探針を再現性よく作製する、ということを目的として、より硬くて頑丈な探針の作製について話すことにします。
探針の材料は、ここではタングステンを選びました。タングステンは、STMで汎用されている白金イリジウムよりも硬くて頑丈であることが利点ですが、探針表面が酸化されやすく、その酸化物は絶縁体であるために測定の妨げになるので、大気中や酸素溶存液中での長時間観察には適していない、という欠点があります。しかし真空中では、酸化の問題が無視できるため、タングステンがよく用いられています。白金イリジウム合金での探針作製いついては、現在実験探索中ですので、まとまり次第別途報告することにします。


ということで、ここでの探針作製の話は、単にグラファイトをSTMで原子分解能観察したい人にはそれほど必要ない話です。でも試料表面に孤立した原子分子を観たい人、そしてどうやったら原子分子を再現性よく観察できる針が作製できるのかということに関心がある人、またはこの長文をここまで読んでくださった人には、きっと興味ある話題だと思います。


2. 直流研磨か?交流研磨か?


タングステンでの電気化学研磨には、交流研磨と直流研磨の二種類があります。交流研磨の方が簡便であるのに対して直流研磨の場合にはいくつか不可思議なことが起こることがあります。


私が経験したなかで最も問題になったのは、研磨で溶液が古くなってきたので、溶液を作製した同じフラスコから研磨溶液を交換したところ、同じ研磨条件で全く違う探針が出来てしまったことでした。それと、電界研磨の速度を上げるために電圧を上げても研磨電流が上がらないで頭打ちになる、ということもありました。


まず最初の問題ですが、これは溶液の濃度が変化してしまったことが原因でした。交流研磨の場合には、電極の極性が時間変化するため研磨しているタングステンと対向電極の両方で気泡が発生して撹拌が起こるため、多少の溶液濃度変化に依存せず研磨できます。ところが直流研磨の場合には、ある溶液濃度においては研磨進行中に研磨しているタングステン線の周囲の溶液がタングステンの溶存限界になることで研磨の進行が一時的に止まることがあります。つまり、研磨の進行速度が周期的に変化して、所謂Belousov-Zhabotinsky反応が起こります。この場合には研磨に時間的なムラが生じてしまい、段差のある悪い形状の探針が出来てしまいます。これを避けるには適切な溶液濃度での研磨が必要なのですが、これが「同じフラスコから研磨溶液を交換しても出来上がった探針が違った」こととどう関係しているかといいますと、実はフラスコ内で濃度勾配ができていて、交換する前にフラスコ内の溶液をよく撹拌していなかったことが理由でした。私自身このことに気がつくのに数日かかり、ある日水割りを呑んでいてグラスの残りを飲み干したときにハッと気がつきました。それ以降は、常に研磨時の電流をモニターするようにしました。特に研磨を開始してから1分後に電流値が落ち着いたときの「初期電流値」をチェックして、この値が正常な研磨時の値からはずれたときには溶液濃度を確認して、場合によっては溶液を作り直すようにしました。更に、フラスコから溶液を移す前には必ず、フラスコの倒立撹拌を3回行うように徹底しました。このように溶液濃度管理を徹底したことで、直流研磨においても再現性がとれるようになりました。


もうひとつの問題は、電気化学に関連することであり、これについての詳しい検証はDavydovらによって行われています[Journal of The Electrochemical Society, 149, E6-E11 (2002).]。結論を言うと、溶液内で起こる現象は研磨時にかける電圧に依存するので、研磨に適切な電圧をみつけて設定したら、その値をむやみに動かさないのが、安定に研磨をするための近道だということです。研磨を多段階で行ってより鋭利な探針を作製するという論文報告も多くあるのですが、よほどの再現性がとれない限りはあまり実験パラメータを増やさないのが、再現性をあげる一番良い方法です。私の経験を書くと、直流研磨を行う場合には研磨するタングステン線側に正の電圧をかけますが、このとき対向電極側に気泡が発生します。そしてこの電位を逆、つまりタングステン線側に負の電圧をかけると、今度はタングステン線側に気泡が発生します。ところが、タングステン線側に正の電圧をかけている状態で、電圧を上げていきますと、3ボルトを越えるあたりからタングステン線側からも気泡が発生するようになります。蛇足ですが、ここまで読んでいる人なら大丈夫だと思いますが、この気泡の正体がわからない人は中学高校の理科の教科書を読み直してください。これらの気泡を用いてタングステン線表面を研磨前に洗浄することも試してみたのですが、結果としては逆効果で、作製された探針の形状のばらつきが大きくなってしまいました。


これに対して交流研磨の場合には、研磨されるタングステン線と対向電極の両方から気泡が発生します。これによって溶液が撹拌されるので比較的再現性の良い探針が作製できます。このように書くと、ではなぜ交流研磨でやらないのか?ということになるのですが、私が試した範囲では、確かに探針の形状の再現性は良いのですが、STS測定を行ってみると、1ボルト以上でも安定した測定ができた探針を得たのが、行った実験の総数は?という突っ込みはそれとして、半年に1個でした。これに対して直流研磨した探針で測定した場合には半分以上の確率で安定した測定が出来ました。理由として、研磨時に電極表面に発生する気泡が研磨表面を洗浄する効果があることは前述のとおりなのですが、その気泡を制御しないと逆に探針表面を荒らしてしまい、結果として歩留まりの悪い探針作製になってしまった、と考えています。これに対しては交流研磨で歩留まりのよい探針を作ってSTSもきちんと測定していらっしゃる方からの反駁をお待ちしています。交流研磨については、スライダックを使うことも含めて、制御が困難な部分が多いので、その解決法があったら教えて欲しいと思っています。


3. 私が行った具体的な直流研磨法


それでは私がここ何ヶ月かにわたって行った直流研磨実験によって現時点で最適化した方法を以下に示します。


まず、タングステンを用意します。ここではAlfa Aesarという会社の品番10408(直径0.01インチ、純度99.95%)のものを用いました。この線の直径によって研磨の条件が異なってきます。違う直径の線を使用する場合には、以下に出てくる数値を参考にして最適な数値を実験から探していってください。


次にタングステン線を真空中で通電加熱します。タングステン線を製造工場で作製する際の行程を考慮すれば自明なことですが、タングステン線は繊維構造になっています。このため、タングステン線をニッパーで切断すると、その断面は平らではなく開いていて、最悪の場合には葉箒のように開いた状態になってしまいます。もし先端がこの状態のままでSTM装置にとりつけて観察したら、グラファイトどころか何も見えないのは自明です。いくら先端のどこかが試料に近いとことがあってそこにトンネル電流が集中するといっても、先端が細く分かれた状態では不安定になり、よほど運が良くない限りはまともな像はでません。(余談ですが、昔とある会社からSTMを買ってその装置の設置立ち上げを業者にお願いしたとき、やってきた担当の方がニッパーで切断したタングステン線をそのまま探針にして、いつまでたっても像がでなくて困った、という経験をしたことがありました。立ち上げで私が横槍を入れると後の装置保証問題に係わることもあるので、こっそりと白金イリジウムの探針に取り替えておいて、事なきを得ました。)この通電加熱をしないで直流研磨しても探針作製は可能なのですが、元が繊維構造なのでそれを反映して研磨した探針の先端が多重になったり、時には音叉のようにフォーク状の探針ができることもあり、歩留まりが悪いことがありました。タングステン線を研磨する前に通電過熱して繊維構造をなくしておくと、この問題を回避することができます。加熱は、大気中では逆にタングステン線が酸化してボロボロになるので、1マイクロパスカル以下の真空中で行います。私の場合には、20センチに切った線を引っ張った状態で電極にセットして、これに交流20ボルトをかけて6.7アンペアの電流を流すことで、30分加熱しています。ただし、この通電加熱処理には問題が2つあります。ひとつは加熱時にタングステン線表面にカーボンが付着することで、特にセットした電極近傍や線を保持しているセラミックスのあたりにはどうしても黒い粉末が付着してしまいます。このカーボンは、ベンゼンとアセトンを使うことで、少量の付着なら取ることができます(ちなみにアルコールでは取れません)。しかし目でみてわかる付着箇所は捨てて使わないようにしています。もし、カーボンが付着している線をそのまま研磨しようとすると、表面のカーボンが保護膜になっていつまで経っても研磨されない、または付着箇所だけ研磨が進行しないので歪な探針になったりします。もうひとつの問題は、これは白熱電球や蛍光灯のフィラメントを触ったことがある人ならすぐわかることですが、加熱処理をしたタングステン線は硬いのですが脆くなっていて、少しの衝撃や曲げで簡単に折れます。特に、多くのSTM装置では、探針を挿入するステンレスチューブに入れる前に線を少し曲げてから入れることで探針を固定するようにしていることが多いのですが、この曲げる作業のときにせっかく作った探針を折ってしまうことがあります。私も何度も体験しました。これを回避するには、探針を少しずつゆっくりと曲げることと、曲げるときの支点が鋭利にならないように気をつけることです。私の場合、この曲げ作業には少なくとも30秒以上かけてゆっくりと行っています。


加熱したタングステン線が室温に戻ったら真空中から取り出し、必要な量と長さの線を二パーで切り出します。この線を切るときには切断時の音に注意してください。切断音の周波数が高いほど、よい切断になりますが、周波数が低い、または「グシャ」に近い音の場合にはあまりよい切断面になりません。


切断した線を研磨装置にセットする前に、光学顕微鏡で線の表面と切断面を確認します。もしカーボンなどの汚れがある場合にはピンセットやペーパータオルなどを用いて除去します。ベンゼンやアセトンを用いて除去した場合には、アルコールで湿らせたペーパータオルで拭いてから水で湿らせたペーパータオルで拭いておきます。これを怠ると研磨がきれいにできません。研磨する側の切断面がきれいに平らでない場合には再切断してきれいな面を出しておきます。


切り出したタングステン線をステンレスの棒にセットします。私の場合、スクリューを用いて固定していますが、このときスクリューを締めすぎて折らないように注意します。シャープペンシルの先端部分を改造してこのタングステン線の固定金具にしている人もいますが、非常に良い方法だと思います。


次に研磨のための溶液ですが、私は水酸化カリウム(KOH)水溶液を用いています。水酸化ナトリウムでも同様に用いることが出来るのですが、KOHよりも潮解性が高くて濃度再現と維持が難しかったので、KOHを用いています。この溶液の濃度は研磨の際の電流値を左右し、最終的には探針の研磨の出来を左右します。適正濃度からずれていると、研磨時の電流が不安定になり、探針の形状が歪になります。この溶液濃度を管理することが、再現性のよい探針作製のために必要不可欠です。まず、メスフラスコに作製した溶液は、作製後に少なくとも20回倒置撹拌してください。作製した溶液は中和滴定(通常シュウ酸標準溶液を使います。詳細は中学高校の教科書などを参照してください)によって濃度を求めておき、さらにpHメーターでpHの値も測定しておいて、もし探針の出来がおかしくなったときには濃度やpHを確認できるようにします。さらに、溶液をビーカーに移す直前には倒置撹拌を3回以上行います。また、これは中和滴定の実験教科書にも書いてあることですが、水酸化カリウムや水酸化ナトリウムなどのアルカリ性水溶液を長時間大気中に晒しておくと、大気中の二酸化炭素を吸収して炭酸として溶液に取り込まれてしまい、結果として溶液の導電性が悪くなっていきます。作製した溶液は栓をして空気になるべく晒さないようにして、1ヶ月以上前に作製した溶液は使わないで新しく作り直します。これらのことを怠ると、メスフラスコ内での濃度勾配や管理が徹底されず、前述したように「溶液を変えたらとたんに探針の出来が悪くなった」という結果を招くことになります。私はこの管理を怠ったために数週間を無駄にしてしまいました。なお、私が使っているKOH水溶液の濃度は0.88 Mです。これが半分の濃度になった場合、研磨の初期電流が通常の70%以下になり、研磨速度が遅くなって、結果として歪な探針が作製されました。逆に濃度が1 Mを越えた場合、研磨の初期電流が通常の倍になり、研磨速度が早すぎるために遅くなって、結果として周期的な段差のある探針が作製になってしまいました。


このKOH水溶液を研磨装置のビーカーに注ぎます。この量も研磨時の電流値を左右するので一定にします。私の場合は注ぎ口のないビーカー(Kimble: 品番14020-100, 容器体積100 ml) に30 ml入れるようにしています。ここで注ぎ口のないビーカーを使っている理由は、ビーカーに取り付ける研磨装置のフタのはめ合わせのためです。


次に対向電極となるグラファイト棒(SPI Supplies, 品番01686-BA, 直径1/4インチ)を取り付けて溶液に差し入れます。この差し入れる長さも研磨電流を若干左右するので常に一定になるようにします。


そしてタングステン線を取り付けたステンレス棒をゆっくりとおろしていき、タングステン線の先端が溶液表面に接触したところでいったん止めます。そしてそこから1.5 mmおろします。つまり1.5 mmほど溶液につけることになります。この溶液につける長さは当然研磨電流も左右しますが、短いときには作製される探針の研磨長が短くなり、時には形状が不揃いになってきます。逆に長い場合は作製される探針の研磨長が長くなり、また研磨にかかる時間も長くなります。経験的に研磨長が長い探針は先端の状態が不安定になりますので、研磨長はなるべく短いほうがよい探針になります。再現性も含めた上でちょうど良い長さを常に一定になるように漬け込みます。


溶液への電極の設置が終了しました。ここで電極への電気配線をしますが、その前に電源のスイッチを入れて供給電圧を調整します。電源は安定なものを用いましょう。あまりノイズのある電源を用いると探針形状に影響してきます。私の場合はHeath ZemithのSP-2718を用いました。電圧は1.8 Vに設定しました。ここで重要なのは、この電位の変動がないように電流を供給するようにすることです。もし電源の電圧調整つまみを触った場合には、少なくとも1分は待ってから研磨を開始してください。というのは、汎用の電源は電圧調整つまみを廻した後から安定な電位供給になるまでに時間がかかるからです。また、調整後の電圧調整つまみはなるべくさわらないようにします。これも再現性の良い電圧供給を実現するためです。もちろん、研磨開始は電源のスイッチを入れてから電源が安定するまで、通常3分以上待ちます。私の研磨条件の場合、設定電圧が1.5 V以下の場合には探針の研磨表面が粗くなり、不安定な探針になりました。逆に設定電圧が3 V以上の場合には探針の研磨表面はきれいなのですが段差が出来やすく、通電加熱して結晶化した線を使っているので(111)のファセット面が出やすくなり、歪な探針になりました。


そして配線をしたら研磨開始です。電流計をつないで常に研磨時の電流をモニターします。この値から研磨状態がどうなっているかがわかります。研磨開始してから最初の1分以内は電流値が乱高下することがあります。これは表面の汚染物や酸化物が取れている状態を表しています。もしこの乱高下が1分以上続くようでしたら、その線の表面は汚れすぎているので、汚染物を取り除くか新しい線に替えます。汚染物が少ない線の場合には、最初の30秒ほど急激に電流が減少していきますが、3~5 mAで安定して、そこからは0.02 mA/s以下のゆっくりとした速度で減少していきます。これが酸化物の取れたタングステン自身を研磨しているときの状態を表しています。また、もしこの電流が研磨中に上昇したり、急激に減少する場合には、タングステン線か溶液のどちらかの異常を示していますので、原因を突き止めて問題を解決します。なお、研磨にかかる時間は私の条件では約30分でした。


それと、研磨停止のタイミングですが、これは自動で研磨を終了する電子回路を作製したほうが再現性のよい探針作製ができます。この停止のタイミングは研磨の条件によって変わります。私の場合には、研磨電流が1 mAを切ったあたりから電流降下速度が加速して、0.7~0.4 mAの範囲で急激に電流が減少して0.2 mA以下になります。ここが研磨終了のタイミングです。ここを逃して電源供給を続けていると、針はたちまち縮んでいき、最後は針先が丸まってしまいます。そこで最初は、電流を研磨中ずっとモニターして手動で落とすタイミングの電流を決めて、そこに合わせて電子回路を作製します。私の場合は、設定値を1~0 mAの範囲で変えられるように設計して、設定値を0.25 mAにして使っています。設定値が大きすぎると、探針の研磨が途中でストップして、先の長い不安定な探針になります。逆に設定値が小さいと縮んで丸まった探針になります。この電子回路はホームページ検索で「tip etching circuit」と入れれば、いくつかの回路図がみつかりますので、その中から自分の用途に合ったものを使うとよいでしょう。自作が面倒だという方は、作製する装置を売っている会社があるので、お金があればそこから買ってください。ちなみに、買うと数十万円しますが自作すると2万円以下です。


研磨が終わったらすぐに針を取り出して純水ですすぎます。小さなビーカー(10 mlぐらいのもの)を3つ用意して、それにつけて少し動かす程度のすすぎを、それぞれのビーカーで行います。超音波洗浄をすると、探針に損傷を与えることがあるのでお勧めしません。またあまり強くすすぎ過ぎるのも、探針によくないようです。


作製した探針は水を切って、針を保管する箱にいれましょう。ウレタンやスチロールのように柔らかいものに差しておくとよいでしょう。


4. 私が作製した探針の数々:失敗も含めて


私の探針博物館へようこそ。ここでは様々な形状のタングステン探針を披露します。

これは交流研磨で作った探針です。この探針では、STM像はうまく取れたのですが、STSは電圧が1ボルト以上で暴れてしまってよいスペクトルが取れませんでした。真空中でアルゴンイオンを照射してみたところ、STSのノイズは若干軽減しましたが、STM像はひどくなってしまいました。どうやら私には交流研磨で良い探針を作る才能がないようで、他の人だと私のものよりうまく作れるようなのですが、その探針でも十分なSTSが測定できたのは半年に1回程度でした。交流研磨で気泡の制御がもう少しできればよいのかもしれません。

 

これも交流研磨探針です。このときはスライダックからの交流電源供給が安定制御できなくて、結果として歪な針になってしまいました。やはり交流研磨の場合も電流をモニターして再現性のよい研磨をするための条件を確立することが必要なのかもしれません。

 

これは直流研磨ですが、最初1.5 Vに設定した後で3.5 Vに上げて研磨してみました。最初の1.5 Vでの研磨では研磨表面が荒れているのに対して、3.5 Vになると研磨表面が金属光沢になって改善されているのですが、研磨速度が時間的に変化していて電流が不安定で、結果として段差のある研磨になっているのがわかります。

 

これは3 Vでの直流研磨です。上記の1.5 Vと3 Vでの電界研磨の中間になっています。このときの研磨初期電流は10 mAでした。これは溶液濃度が高かった(おsらく1 M以上)ことが要因です。

 

これは1.5 Vでの直流研磨探針です。形状はそんなに悪くないのですが、研磨面が荒れていて、そのためSTSは1 V以上になるとノイズだらけになってしまいました。

 

これは1 Vでの直流研磨です。研磨部分が長い針になって形状も歪で、STMもSTSも不安定でした。

 

これは最初1 Vで研磨していて、そこから急に10 Vに上げたときの結果です。やはり電圧が低いと研磨面が粗く、逆に高いと研磨面はよいのですが研磨の進行が早すぎたようです。

 

さて、これが問題の探針作製結果で、良い探針が出来たときと全く同じ条件で作ったにもかかわらず、このような形状になりました。理由は、この写真からでは少し判別がしづらいのですが、カーボンの汚染物が探針に付着していて、このカーボンが研磨時に悪さをしたと考えられます。実際、この針を作ったときの電流初期値は5 mAと高く、電流も安定していませんでした。

 

これは1 Vでの研磨です。先端が黒ずんでいるのはカーボンの汚染物です。また、研磨面にはタングステン結晶の111ファセットが出ています。

 

これは1.8 Vで作ったときのもので、前章で書いた条件なのですが、電流が0.5 mAになったところでカットしたためにこのような長い針になってしまいました。

 

これは電圧電流共に通常よりも大きかったときの結果です(5 V, 10 mA)。何だかソフトクリームのような形状になってしまいました。

 

これは、3.5 Vで線を2mm挿入した条件で0.75 MのKOH水溶液で研磨したときの結果です。比較的短い探針をつくることが出来ましたが、その後この条件を再現することができませんでした

 

これはカーボン汚染物がタングステン線に付着していたときの結果です。

 

やはりこれもカーボン汚染物がタングステン線に付着していたときの結果で、このひとつ前ではよい針が出来ていました。判別は研磨開始時の電流で、乱高下したり電流が通常よりも大きいとこのような研磨結果になりました。.

 

これは3.5 Vで0.5 M KOH水溶液で研磨したときの結果ですが、実はこの研磨の前に電極の極性を反転させて線を気泡で10秒洗浄してみました。どうやらこの洗浄をすると、逆にこのような変な形状の探針になりやすいようです。

 

1.2 Vでの研磨。111面ファセットがいくつか出現しています。このようなファセットが出現するときは研磨時の電流が不安定になることを確認しています。

直流研磨の途中ではこのような形状になっています。

 

これは、線を10 mmほど溶液に浸した状態で研磨して、研磨終了時に溶液に落ちた方の針です。このような形状のものが得られるようです。

 

これも研磨時の電流が大きいときの典型例です(10 mA, 3.5 V)。研磨時の電流は周期的に上がったり下がったりして、B-Z反応のような状態で研磨が進行しました。その結果、年輪おような形状になっています。

 

これは作製だけはうまくいった探針です。どうしてこうなったのかは自明ですね。

 

これも電流が大きいときの典型例(15 mA, 5 V)。このときもカーボン汚染物が表面に浮いていて線に接触していました。

 

最後に、うまくいったときの探針を示して締めることにします。研磨時の開始電流は3.6 mAで、0.6 mAで研磨終了しました。このときの線の溶液差し入れ距離は1.2 mmで電圧は1.8 V、溶液は0.88 M KOH水溶液でした。


5. さいごに


とにかく再現性のよい探針作製をするには、電流をモニターして研磨状態を確認することです。異常があった場合の原因は1) タングステン線表面の汚染物、2) 溶液表面に浮いているカーボン汚染物がタングステン線に付着している 3) 溶液の濃度か状態が変化した、のいずれかだと思ってほぼ間違いありません。


STMを使って研究しているところは年々減っています。原因は、STM発明後に登場した原子間力顕微鏡の方が汎用性があって使いやすいということがあります。しかし原子スケールでの観察になれば、原子間力顕微鏡でもSTMと同様またはそれ以上の難題が降ってきます。STMをやっていると、他の実験装置と違ってうまくデータが取れない日々が何日も続いたりします。精神的にタフな人でないとSTMは難しいのかもしれません。でもそのSTMの技術的な問題の多く、例えばノイズ対策や振動対策については、その問題解決法はほぼ確立されてきました。残っているのは探針です。


私自身、タングステン探針の清浄化の方法をいろいろ試したことがあります。例えば探針を真空中でブタジエンガスに晒すことでタングステン表面の酸化膜除去をするという方法です。もちろん探針加熱も試みました。しかし再現性のよい探針作製法を得るには至っていません。


昔まだSTMが発明されて十年も経っていない頃、私の上司が「STMで最大の未解決問題は探針だ」と言っていました。そして今世紀に入ってもその未解決問題はまだ完全には解決されていません。もちろん、様々な探針がこれまでに多くの研究者によって開発されてきました。スピンSTMのための磁気探針・電気化学STMのための絶縁体コート探針・分子修飾された探針での化学的な分子認識法・導電性分子固体探針、、このように様々なSTM探針が考案されてきて、科学技術的な成果が得られています。しかし安定かつ再現性のよい探針の開発というのは非常に泥臭い仕事である上に、そこから期待される科学的な成果はほとんどありません。しかしこれを解決せずして次のステップの応用展開へは進めません。STMは工業への寄与がほとんどなく、まだ基礎研究の道具に留まっています。つまり産業に応用して役に立つレベルに持ってくるには単に熟練技術者による実験室レベルでの10回以上に1回の実験成功では使えないのです。この問題を解決して誰でも簡単に使えるSTMにすること、そしてその糸口を見出すことが、私そして多くのSTM研究者の応用課題のひとつだと私は考えています。